「他人の私」という青葉容疑者の言葉
〈昨年11月の転院時、青葉容疑者は医師に「他人の私を、全力で治そうとする人がいるとは思わなかった」と漏らしたという。〉Yahoo!『青葉容疑者、死亡率95%超だった…懸命に治療した医師「君も罪に向き合って」』2020年5月28日より引用
京都アニメーション放火殺人事件の青葉容疑者が医師に語った言葉が公開された。その中の「他人の私」という言葉が、注目を集めている。
青葉容疑者、死亡率95%超だった…懸命に治療した医師「君も罪に向き合って」 : 国内 : ニュース : 読売新聞オンライン
— Hey蔵 (@i1i2d3) May 28, 2020
『青葉容疑者は医師に「他人の私を、全力で治そうとする人がいるとは思わなかった」と漏らしたという』
いろいろと考えさせられる言葉よな。https://t.co/oKgO5fNiIV
「他人の私」にハッとした人は多いのではないだろうか。私もその一人だ。
人はそれぞれ仕事先や通学先、家庭などで人間関係を持っている。だが、その関係性が薄かったり、尊厳を与えてくれるようなものではなかったり、そもそも関係自体がなかったりすると、誰にとっても「他人」として存在していることになる。
「他人の私」に自分を投影する
Twitterのつぶやきには、いつもさびしさが漂っている。
「飲み会に参加したくないけど断れない」
「旦那が私の気持ちをわかってくれない」
社会との関係を維持しつつも、“人は自分のことをわかってくれない”と考え、所属への希薄感、つまり“居場所がない”と感じている人は多い。そしてあの言葉は
「誰とも関りを持てなかったかわいそうな人だから、犯罪を犯してしまったのだろう」
「自分も“他人の中にいる”ので、少し気持ちがわかるような気がする」
というイメージを想起させる強さを持っている。
人はすべてのイメージを自分なりに解釈するので、まったく同じ情報が共有されることはない。報道記事でも、フィクションでも、
「自分だったらどうだろう?」
と自分にあてはめて処理するのがセオリーである。
他人が脳に持つ情報をそのままシェアする手段は現状ないのだから、仕方のないことだと思う。身長がちがえば見える景色もちがう。同じ物語でも、それぞれの心象の中に存在するものはちがうのだ。
そこには注意する必要もある。
他人の物語を自分の物語として消費すること
京都アニメーション放火殺人事件。
木村花さんが亡くなったこと。
タピオカ屋さんでマスクを売っている理由。
様々なニュースが、私たちの暮らしに影響を与えている。
それまで全く興味がなかった話題でも、強い言葉をきっかけに
「私にも関係があることだ」
と“自分ごと”として考え、何かを変えたり変えなかったりして、またすぐに忘れてしまう。それはエンタメとしての“消費”に近いものではないだろうか。
制作する側もそれは重々承知しているので、どんなコンテンツでも商品でも、“あなたに関係のあることだ”と強くアピールしてくる。それを真に受けてすべて自分ごとと受け取っていたら、自分の時間、人生が奪われてしまう。ある程度の線を引くことも必要だ。
どんな現象も、切り取る言葉によって印象はまったくちがうものになる。エモーショナルな言葉は、一部だけでなく全体のイメージを決定するし、ひとつの強いツイートが、誰かの人生を破滅させることも。
発信する側は、言葉が持つ強さに対して慎重になったほうがいいだろうし、受け取る側は、共感できたなにかが、ごく一部のイメージであることを忘れないでほしい。
「他人の私」は、あなたではないのだから。