初めてその場所を見たのは、二十年以上前。
当時ファッション誌Zipperの仕事をしていた私は、スタッフと歩いていて行列を見つけた。
「あれは何?」
と聞いたら、誰かが
「落語だよ」
と教えてくれた。そしてそのまま、忘れた。
令和五年三月三十日。新宿末廣亭にて
その場所とは、新宿末廣亭。昭和21年から続く伝統ある寄席だ。そして令和五年三月三十日、私は息子と並んで笑福亭羽光主任興行・千穐楽の客席にいた。笑福亭羽光は、どうやら私の夫であり、息子にとっては父親である。
トリの演目は、「私小説落語〜落語編〜」。絶望から恐怖に打ちひしがれた羽光が、落語に出会い再生していく話だ。結婚しているとかは関係なく、染み入るものがあった。羽光には羽光の見ている世界があるし、私には私の世界しか見えない。そして、観客一人一人にも物語と、そこから見える景色がある。それは混じり合わないけれど、それぞれ大切なものだ。その日の高座から、そう受け取った。
中年の主張
あまり過去を振り返らない私でも、「だいぶ走ってきたな」と思うことがある。今回の主任興行には、ZipperやBoonで働いていた時の友達も来てくれた。落語に出てきた前座仲間みたいなもんである。昔と変わらずキラキラしていたり、なんもしていなかったり様々なんだけど、私も含めて、みんなやさしくなったなと思う(私以外の人は昔からやさしかったのかもしれない)。
「歳をとると丸くなる」と言われる意味が、自分が中年になってわかった。多分みんな、さびしいのではないだろうか。
私たちは一人で生まれ、一人で死ぬ。人生とはなんてさびしく、不安なのだろう。目標を持ったり、用事をしこたま詰め込んだりすると、その恐怖を忘れることができる。でも、目標を見失ったり予定にスキマをたくさん見つけたりしたとき、またその恐怖に気づいてしまうのだ。
特に春は危ない。桜が散る。生暖かくなる。この浮世離れした季節は、人の心を現世から解き放とうとしてしまう。
若者には「何者かにならなくてはいけない」辛さがあり、中年には「何者にもなれなかったけどまだ人生が続く」辛さがある。その手には夢も希望も体力ももうない。死に向かって衰退しながら生きていく。もちろんこれから何者かになったっていいのだけれど、イケてるとかイケてないとか関係なく、やさしさを与え、与えられながら生きていきたい。さびしいから。
忘れ物
そんなことを考えていたら、
「君、靴下忘れとるで」
と羽光からLINEが来た。
私はその日もたくさん忘れ物をした。靴下も忘れたし、スマホの充電器も忘れたし、バッグも丸ごと忘れた。私はウスラトンカチなので、たくさんの忘れ物をしながら生きている。本当にダメなんだけど、忘れ物にもいいところがある。私が忘れたいろんなものを誰かが見つけたり、届けてくれたりすることで、波紋が広がる。そして私たちは会話し、つながり合うことができるのだ。
ろくでもないから、私は人間が嫌い。嫌いだし、生きる意味も特にないから、その分つながったり、お互いに必要だと言い合ったりしないと生きていけない。
春に死にたくなる私たちへ。
人間は嫌いだけど、私はあなたのことが好き。
だから私のために生きてほしい。
私も、あなたのために生きる。