「お母さんは殺し屋だもんねえ」
ご飯を食べながら、17歳の息子が言った。母の日で、息子が作ってくれた油淋鶏を食べていた(母の日だからではなく、息子はよくご飯を作ってくれる)。
大沢たかお祭りのムーブメントが起きてSNSが「たかお母さん」だらけになっていたとき、私はひとり「殺し屋母さん」になっていた。
私は殺し屋が出てくる漫画が好きだ。殺し屋の仕事は刺激的だし、たいてい孤独で、そして強い。殺しのシーンが残虐である分、ほっこりした日常パートも心に残る。私はそんな殺し屋に共感することが多く、以前その話をしていたので冒頭の息子の言葉が出てきた。覚えていてくれること、そして理解してくれていることがうれしいなと思った。普通は、殺し屋に共感するお母さんの言葉なんて「わけがわからない」とスルーするだろうから。私たちはどうでもいいたわごとを日々生成し、まわりの人に話したり、SNSに放り投げたりしながら生きている。
殺し屋は強いのか
殺し屋は強いのだろうか。そりゃ強い。でももっと強い人がいる。殺しを依頼する人たちだ。現場には行かず、好き勝手なことを言う。報酬を取り上げたり、無茶な殺しをさせたりする。使い捨て感覚。
それでもなぜ殺し屋は殺しという大変で面倒な仕事を選ぶのか。そもそも他の選択肢を知らなかったり、弱みを握られていたり。恐怖が引き金となって暴力性を発揮する場合もある。多くの(漫画に出てくる)殺し屋は、強いけれども強くない。自己の特性と環境から、厳しい案件にも取り組み、才能を発揮する。自分が死ぬかもしれないのに。だからこそ、殺しと離れたシーンでのご飯のあたたかさは、際立つ。
私たちは殺し屋なのか
私はもちろん殺し屋ではないが、殺し屋のようだなと感じることがある。フリーランスとして生きてきて、いつも「これで私の仕事生命は終わるかもしれない」と感じている。「いや、無理では?」と思うことがあっても、現場には私という全存在で向かう。そうしているうちに素晴らしい瞬間があったり、誰かに出会ったり。とにかく必死で生きている。同時に猫のトイレ掃除や子どもの学校の用事なども発生するので、キャベツの千切りをしながらノールックで何かを射っているような感覚がある。無茶なことをしている。
無茶な環境に置かれると人はどうなるか。素敵でやさしい自分だけの空間や作品を作る人も多い。色調を統一したおしゃれな生活写真を撮るとか。人をつなげてより良い環境を作ろうと前向きなアクションをする人もいる。一方、世界を理不尽なものと認識し、息苦しくてもめちゃくちゃでもどうにか生存ルートを探して生きていこうとする人がいる。私は、そういう人は殺し屋っぽいなと思う。白くてふわふわしてないから弱くは見えないけれど、どこか弱いのだ。何かが欠損していることが多い。弱いから、強いサインを求めている。
MUJINA INTO THE DEEP
殺し屋漫画が好きな私は、最近は『MUJINA INTO THE DEEP』(浅野いにお著)をビッコミで読んでいる。人権を持たない「ムジナ」であるウブメは殺し屋で、他の登場人物もだいたい何かが欠けている。「普通の女子高生なんてある意味一番価値が高い」というセリフがあるけれど、本当にそう。普通なんてどこにもないのに、普通であるためにみながんばって強いふりをして生きている。でも、長いこと続けるとテルミ(ゲーム制作会社の社長)のように疲れ切ってしまう(私は中年のためテルミに感情移入する)。
何かが欠けていて世の中に適応できない人々は不器用なので、マッチングアプリで誰かに選ばれることはない。裸ではあるものの素直ではなく、朗らかであるといった一般的な魅力には乏しいので、用意された場所で出会うことはできない。誰かに出会うには偶然や、時には暴力のようなショックを必要とする。ウブメたちの場合、たくさんの死体が必要だったのではないだろうか。
私たちは殺し屋ではない。でも、殺し屋のような私たちも、武装した荷物をちょっとおろしてご飯を一緒に食べる友達ができるといいなと思う。ひとりで生きて戦わざるをえない、私たちはとても弱いから。